神社仏閣巡りの旅いってきました②
- akihiro yoshida

- 2024年9月13日
- 読了時間: 8分
前回のご報告からけっこうゆっくりさせていただいて、
気分は養生でありながらカウンセリングもゆっくり始めさせていただいてます
先日は生徒さんから教えていただいたおすすめのお寺に行ってきました
京都市右京区にある 神護寺
高尾山というお山自体が霊山でその山間に神護寺があります
お寺の麓まで車で行けて有料駐車場に停めてお山を感じてみるとじんわりと気を感じ出します

神社仏閣をめぐるときは先入観が入らないように事前調べなどはなしで行くのですが、
う〜ん、、、なんだろう、、
お寺に入る前からなんだか落ち着かない感覚を感じながら神護寺にいきました
途中急な坂を登って神護寺に入ると、
もう、、、これ、、、まさしく、、、ってやつです

なるほどなぁ、、、エネルギーが強いはずだ、、、
まるで修行者の気です

人生を修行に捧げてきた人たちが培ったような強い気を感じます
感じた気に合わせて般若心経や祀られている仏像のご真言を唱えてみるとやはり御神仏が発する気からも癒しというより少し厳しい気を感じます
参拝する方達にも魔を祓ったり、修行をつけてやろうというような気を強く感じるのです
養生を含めたお勉強にきている私には、神護寺の気はちょっと強すぎて頭が痛くなったり、しんどくなってしまいました
しかし断っておきますが神護寺の気が決して悪い気ということではありません
むしろ重たい気や不浄の気が入り込む隙がないような強い光のような気を発している場所でした
ここで感じる頭痛やしんどさは、境内に不浄の気が入るこむ隙間なんてなく、むしろ高いお勉強をさせていただいた頭痛と感じてます
気というのは人間同士、気が合う、合わないという言葉とおり、場所や物、それぞれに相性があります
私の気の個性は細かい柔らかい気があります
なので前回ご紹介させて頂いた薬師寺なんかはめちゃくちゃ気が合うのですね
その境内にいるだけでずっとヒーリングされてるような心地よい気を受け取りやすいです
逆にこの強かった神護寺の気をすっきりすると感じたり、爽快な軽い気持ちになる方もいらっしゃるのではと思います
それが気の相性です
今回の神護寺は今の私にとっては少し厳しいお勉強の場所って感じで、帰ってから神護寺を調べてみると、空海さんが真言密教の修行の場としていた地であり、その密教を学びに京都、奈良の僧侶たちが教えを乞いに修行の場としていた地であることがわかりました
ど〜りで、、、、とひとり妙に納得

(かわらけ投げ”体験で疫病退散と案内していたのでやってみました)
真っ直ぐ土器のお皿が飛んでくれてなかなか楽しい^^
今回の神護寺はとても厳しい場所の気だけど、年に何回かは勉強に来るのもいいなと思いながら、気というのは場所それぞれ違うものだなといういうことを改めて痛感した日となりました
今回神護寺は今の私には少し疲れたので、また全回復した時にこようと思います
そして数日明けて
本日、京都市伏見区にある 伏見稲荷大社へ

私の家の神棚でお祀りさせて頂いている第一社の神様は天照大神さまではなく、伏見稲荷大社のお稲荷さまです
そして心から好きな神様として崇めている神様です
実は数日前にもここにきてて、今回、病による入院は伏見稲荷大社へお祈りに行った当日の出来事だったのであり、無事退院させて頂いたお礼参りに行って参りました
本日、伏見稲荷大社に行き、稲荷山を登って頂上の一の社でお供えにお酒と、いなり寿司とお餅を持っていき、祝詞をあげると眷属の方が来てくださりました
これも前回のブログに報告させていただいたことですが、
私は8月に伏見稲荷参拝した数時間後、今までに味わったことのないほどの激しい腹痛を感じ、緊急入院となりました
入院すると苦しかったのはその日だけで、医師からは手術も視野に入れていると言われながら翌日からはなんの痛みもなく、経過観察で4日間入院し、退院後も痛みなく元気で過ごさせて頂いてます
それだけでなく、立て続けに続いていた人のエネルギーを感じるという仕事から離れてみると、目に見えない領域で聞こえたり視えたりする幅が自分の中で格段に広がったのを感じだしていました
それは現在、ゆっくりと再開したカウンセリングや神社仏閣に行ってもそれを如実に感じます
また、不成仏霊の影響が圧倒的に少なくなってきたのを感じるのです
いきなりなんの話?と思われる方もいるかもしれませんが、カウンセリングで不成仏霊を引き連れて来られる方は多々いらっしゃいます
それを引き受けたり、供養するにしてもしばらくは影響を受けたりしていたのですが、その影響を以前より断然受けにくくなったのを感じるのです
伏見稲荷大社はどちらかというと霊獣や精霊ののよう人形でない存在の眷属が多くいらっしゃるのを感じますが私のそばに来ていただけたのはどうも人だった方が修行されている眷属の方でした

その眷属の方に退院後の一連のご報告をさせていただき、そしてなぜ、前回私が伏見稲荷大社に、お祈りに来た数時間後に入院をすることに至ったのかを聞いてみました
すると全てに答えてくださりました
なぜ入院をしたかについては、「願いを叶えるために必要だった」とおっしゃってくださりました
私の伏見稲荷でのお祈りは、毎回決まってます
「御神仏の存在を多くの方に伝え、関わらせていただいた方の心に安心や平穏がくることのお手伝いをするために、御神仏をもっと肌で実体験させてほしい、そして生の声を伝えていきたい」ということ、
「そのためにもっと声を聞き、姿を見てさまざまなことを高次元の存在から教えてほしい」という願いをこれまで伏見稲荷の参拝の時に伝えてきました
眷属の方曰く、その願いを叶えるために病を起こしたとおっしゃられました
「え?どういうことですか? 死ぬんちゃうかってくらい痛かったんですが、、、」というと、
「時期が来たから隙間を作るためにおこした病」と、、
私は「隙間?とは」
眷属「隙間とは高い気を入れる隙間だ お前は人の業を入れすぎて、届くはずの声の隙間すら無くなりかけていた だから物理的に隙間を作るために病を起こすしかなかった」っとおっしゃっていただきました
それは私の仕事柄、カウンセリングやセッションで人の気を読み取ったり、受け入れたり祓ったりするから浄化が追いつかなくなってたのだと自分でも自覚するほどに至ってました
特に7月8月はこれまでにないほどの忙しさでした
眷属「お前はこうでもしなければ目線を変えたり、生き方やあり方を見つめんだろう だから病のたびに気づき、手放し、高い気を通す隙間を作ってきた」
「その隙間がお前の心を救ってきている」 「願いを聞くためにその隙間が必要だった」ことや「怪我は後がのこるから病にしたんだ」 ともおっしゃっていただきました
なるほど、、、、お願いの叶え方が物理次元のわたしたちとは違う斬新さを感じてしまいました笑
「でも今回強烈に痛すぎたんですけど、、、、」というと明るく笑ってくださりました
でも俺はこんなことでもなければ気付けないもんあぁ、、、と、つくづく、、
痛い思いをしなければ気付けない自分の性をもう受け入れるよ、、、
そして流れを受け入れる、委ねるということをもう少し俯瞰して見つめることが大切だということも実感しました
そうして眷属の方とお話ししながら山頂から下山途中、ひどく腰の曲がったおじいさんとすれ違いました
眷属の方とお話ししながらですのでこの時は目に見えない領域でさまざまのことを感じたり視えたりしてます
そのおじいさんの背中に肉眼では視えないあっちの世界の大きな石が乗ってます
眷属の方に「あの石はなんですか?」って聞いてみると
眷属の方は「あれは自分自身を許すために背負っている業みたいなもんだ」と言われました
私「業っていうのはなんでしょうか?」と聞くと
眷「わかりやすく言えば前世と今世で積み上げた喜びや悲しみみたいなもんだ」
「あの岩は背負いたくて背負っているものであり、為した業を許したくて自ら背負っている業の石だ」
私「本人が望んで背負っている石で腰が曲がっているんですか?」
眷「そうだ、思考や心はそれを意識せずとも、前世で積んだ業、それを許したいと望む魂が背負い続けている石だ」
そんなこともあるんだと教えていただきました
またお金のことや仕事のこと、そして繋がっているご縁のことなどを質問させていただき、そんなやり取りを1時間ほど繰り返しながら下山していきました
下山したところで「ありがとうございました」とお別れを言って視えなくなった瞬間、
あ!! お名前を聞くの忘れてた!!! 視えなくたった時に 「お名前は?!」と聞くと『$%&’’#”?』 ???
よく聞こえず聞き返しました
なぜかこの視えない高次元の世界でお名前はとても重要な気がします
聞き取りにくかったので失礼ながら3回聞きななおしてなんとなく聞こえたのが
ニニギさん、ニワギさん?さん的な発音で聞こえてきました
私がまだまだわかる力が低いためお名前に関しては特に聞き取りにくく、今度会った時にはしっかり聞いてみようと思います
今回伏見稲荷大社へ再び行けて色々なことが理解でき、その存在に確信が深まったことが大きな喜びとなりました
御神仏を感じてみたり、聞こえたりするうえで必要なことがなんとなくわかってきたことを、ご縁ある方達に伝えていきたいと強く思いました
嬉しい1日
よく寝れそう🌟



